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飛騨への真宗の伝播



 江戸時代中頃、照蓮寺の歴史を記述編纂した『岷江記』によると、飛騨への真宗の伝播は次のようです。

 親鸞聖人が、関東から京都へ戻られるおり、伊豆の三島で一人の流人がお弟子となりました。元、大津の三井寺の僧であった道伊という方ですが、嘉念坊善俊という法名を頂き、聖人のお供をして京へ登りました。その後聖人の勧めもあり、お念仏の教えを知らず迷信に迷い、生活に苦しみ悩む人々を救うため、諸国を旅して、越前国(福井県)穴馬から石徹白を通り、美濃の国に入り、白鳥に草庵を構え布教を行っていました。白鳥には白山の登山の拠点長滝神社や長滝寺があり、加賀国(石川県)白山媛神社、越前国平泉寺とともに三馬場のひとつでした。ある時、法座の中に見慣れない人物がおり、それは飛騨の国の住人でした。その者の招請によって飛騨へ足を踏み入れ、白川郷鳩ヶ谷に庵を構え教化に努めました。その後飯島に道場を移し、年三月三日、六十九歳で亡くなりました。

 その後、『岷江記』は二代目善隆以降八代目明誓までは没年を記すだけで、それぞれの業績に付いては全く述べられていません。したがって、二代目から八代目までの存在を疑問視する意見もあります。
 八代明誓には二人の男の子があり、長男を教信、次男を明教といいました。教信は武芸を好み、還俗して三島将監教信と名乗りました。この頃白川郷保木脇に内ヶ島将監為氏という室町幕府の奉公衆が城を構え勢力を伸ばしていました。内ヶ島為氏は三島教信と照蓮寺と真宗門徒(一向一揆)の力を恐れ、照蓮寺を焼き討ちにし、住職明教は卒塔婆峠で自害し、三島教信は何処へと落ち延びていきました。

 この争いは文明7年(1475)とも長享2年(1488)とも、或いは二回争いがあったともいわれますが、確定できません。ただ文明7年は、隣国の加賀で守護代富樫正親と弟の幸千代が跡目争いをし、真宗の本願寺門徒は兄の正親を、真宗の高田門徒は幸千代を支援して一方では真宗内での宗教戦争でした。結果は正親と本願寺門徒が勝利しました。

 その後、正親は本願寺門徒(一向一揆)を圧迫、攻撃しましたが、逆に一向一揆に居城高尾城を囲まれ長享2年8月自害しました。この後約100年に亘り、前田利家に攻め滅ぼされるまで、加賀の国は一揆による自治が行われ、「門徒の持ちたる国」のようになりました。飛騨の内ヶ島と三島、それに照蓮寺の戦いも、応仁の乱、それに加賀の一揆との関係で考えなければならないと思います。『岷江記』が言うような三島教信が為氏と同じ「将監(しょうげん)」という官途を名乗ったから、為氏が怒って戦を挑んだということではないでしょう。

 照蓮寺は断絶しますが、明教の遺児亀寿丸(後の十世明心)は幼児でしたが、乳母の機転で難を逃れ越前永平寺で養育されました。その間は、大坊主牧ケ野唯乗と楢谷善宗が人々の教化を行い取りまとめていました。亀寿丸は成人すると、山科本願寺に九代目実如上人を訪ね、得度して明心の法名、六字名号を頂き照蓮寺の再興を許されました。また大坂の石山坊舎に蓮如上人を訪ねてもいます。帰国に当たっては、実如上人の斡旋によって、父の敵内ヶ島為氏と和睦し、娘大姫を妻に迎え、荘川村中野に照蓮寺を再興しました。

 明心の活躍した期間は、実如上人と十世証如上人の時代にあたります。この時代の飛騨の本尊の裏書を調べると東西110カ寺のうち、80カ寺程が明心の活躍した時代に当たります。真宗の教えがいかにわずか30年余りで広まったか分ります。このような道場から江戸時代に寺院になっていったところ以外に、蓮如・実如上人のころの「南無阿弥陀仏」を墨書した「六字名号」を安置する在家の多いことからしても窺えます。

 真宗の道場になったのは村の有力者や、転宗した天台宗や真言宗の寺院、或いは村堂であったと伝えます。中世には、美濃国白鳥の白山天台宗の長瀧寺の影響下にあったと考えられていますが、江戸時代『飛州志』編纂の時代には1カ寺も無くなり、真宗に転宗したり廃寺になってしまったようです。また真言宗から転じたと伝える真宗寺院も何カ寺かあります。