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玄興寺開基の絵像本尊について


 現在、玄興寺には、由緒がいうような文明5年、文明9年の蓮如上人裏書のある絵像本尊は伝えられていません。実如上人の裏書の本尊が伝えられていますが、それも由緒がいう延徳元年の裏書ではなく、明応3(1494)年6月14日、越前国石堂代の道従に授与されたものです。文明5年に蓮如上人から授与されたと『飛州志』に載せる絵像本尊は、そのような裏書を持つ本尊が存在していたのかどうか、そのこと自体が疑問です。

 『飛州志』に記載されている裏書には、現在その寺院に伝えられている裏書と違った場合が多く見られます(たとえば高山市石浦町の速入寺)。また、飛騨に伝わる蓮如上人が授与した裏書は、文明15年(1483)から長享3年(1489)の間に集中し、文明15年より前に授与された例がないということです。最近の研究で、文明3年(1471)から文明15年(1483)には、蓮如上人の長男の順如上人が本尊の裏書をしており、蓮如上人は本尊裏書をしていないと考えられることです。しかし、順如上人が文明15年2月に亡くなったので、蓮如上人は六男の実如上人に延徳2年10月に譲り状を書いて隠居するまでの間、絵像本尊の裏書をおこなったと考えられています。それに「照蓮寺」という寺号は明応3年以降にみられるもので、文明5年には存在しなかったと考えられるのです。したがって、由緒書の文明9年という年号も、絵像本尊では考えられないのです。文明9年に蓮如上人を越前吉崎に訪ねたといいますが、蓮如上人は前年(文明8年)吉崎を退出し、9年には河内の国出口(大阪枚方)に滞在しておられます。

 次に、『飛州志』に見える願主の深明と、由緒書が伝える初代覚信との関係について、十一世覚瑛のまとめた由緒には最後に系図があり、初代覚信を「深明坊覚信」と、深明が覚信の坊号であるとしています。また『斐太後風土記』には、「春国村の村名は、玄興寺の祖玄興深明坊の子、玄国の名に由来する」と、開基は「玄興深明坊」で、息子が玄国(はるくに)といったと伝えられますが、本尊授与の記述が一切ありません。『斐太後風土記』の典拠は不明です。深明と覚信との関係、春国の村名と「玄国」という人物との関係も保留しておかなければならないと思います。

 由緒には、善俊上人の弟子となったと記していますが、善俊上人は、鎌倉時代の人物で親鸞聖人の弟子となり、飛騨に真宗の教えを最初に伝え、照蓮寺(高山別院)の開基といわれており、年代が全く合いません。おそらく照蓮寺十代目と伝える明心(やはり嘉念坊と名のった)の教化を受けたことが、誤って嘉念坊善俊上人の弟子として伝えられたと思います。

 由緒では、延徳元年(1489)、実如上人より本尊を授与されたとありますが、現存する玄興寺の絵像本尊は実如上人の裏書です。しかし、明応3年(1494)のことで、年号が違い、願主も道従とあり玄興寺の歴代に名が見えません。

『玄興寺記』に、実如上人の本尊の「由来書」が紹介されています。


「大田図書という石堂代の神主が、照蓮寺十世明心の教化を得て転宗した。それより七代目の大田主計の代に、金森家が検地を行い農民が一揆を起こした。主計はこの本尊を携え飛騨へ(当時、石堂代は越前の国)逃げ、玄興寺に滞在し生涯を閉じた。それで玄興寺の霊宝となった(要約)」。


江戸時代に、白鳥から持ち込まれたものということで、玄興寺の開基仏とはいえません。

 玄興寺の開基仏は現存していないので、蓮如上人、実如上人のいずれから与えられたのか、特定は出来ません。しかし、他の寺院の例からも実如上人から授与されたものかと推測しています。

 この本尊は、嘉念坊明心の手次によって授与されているのですが、それが明心から善俊上人の教化に預かったという伝承の原因となったと考えられます。

 石徹白は信仰の山、白山の美濃側の登り口で白山中居神社があり、天台白山信仰の盛んな土地でほとんどの人々が社人でした。江戸時代中期に照蓮寺(高山別院)の歴史を記した『岷江記』には、照蓮寺十世明心がこの地を教化し真宗に転じたことを記しています。

「明心白山に登り給ふ事・威徳寺」大意

 明心が、あるとき申された。「私は白山のふもとに久しく暮らしているが、その頂を知らないので一目みたい」と白山へ登られた。その登山口である美濃の石徹城(石徹白)の神主やその他多くの社人もつき従った。

 ようやく頂上近くなったところに広々とした池があり、湯が煮えたぎり、ほとばしっており、白山第一の地獄というべきところである。明心がそばによって見ると、あたかも阿鼻叫喚地獄の釜ゆでかと疑うほどである。明心が「ここから奥の院までどれほどの道のりか」と尋ねると、人々は「この池があるので一里(四キロ)ほどです。この池がなければ七・八町(七・八百メートル)はないでしょう」と答えた。

 明心はうなづいて板を削り筆を執って六字名号を書きて熱湯に入れたところ、池の熱湯は二つに分かれて池の中にたちまちに道を現わした。まるで昔からの道のようであった。明心がまっすぐに歩み、人々が皆その後を従ってゆくと、波しぶきがかかることはなかった。とうとう再び湯に浸かる事のない道となって往来をたやすくした。人々はこの奇特をみて明心に帰依し門下となった。

 その後幾程もなく道場を建立し、表立って(世俗的に)は神事祭礼を勤め、内心にはお念仏を称える一向専修(真宗)の宗風を仰ぐようになった。そしてとうとう寺号を御免になって、威徳寺という。」

 威徳寺というお寺は石徹白にあり、蓮如上人の「正信偈」文二幅や六字名号、実如上人の裏書のある方便法身尊像が伝わっています。この裏書は道幸へ明応五年七月十八日に授与されています。

 石徹白には同日付でもう一幅、浄通に授与され、現在、円周寺に所蔵されています。願主の名前が違うだけで、ほかは威徳寺へ授与されたものと全く同じです。

 『岷江記』には威徳寺のことしか出ていませんが、明応5年に威徳寺と円周寺の先祖に対して本尊が授与され、真宗の道場が出来たことがわかります。しかし、玄興寺の裏書は明応3年とこれより2年前のことです。

 白山中居神社の社人がほとんどである石堂白(石徹白)に、照蓮寺明心が教化をおこない、明応3年から5年にかけて3つの道場が真宗の拠点として出来たことを示しています。

 また玄興寺所蔵の裏書には「白川善俊門徒」とありますが、威徳寺・円周寺には「白川照蓮寺門徒」とあり違いが見られます。しかし玄興寺と威徳寺の願主ともに「道」という文字が使用されており、同じ手次による命名かと推測されます。

 照蓮寺という寺号に付いては、当初は正連寺であったものが、照蓮寺と改められたという言い伝えがあります。

 嘉念坊善俊上人が、鳩ヶ谷に道場を建立し、照蓮寺と称し、室町時代正蓮寺九世明誓の長男教信が武士となり弟明教に住職を継がせた。教信は内ヶ島為氏と戦い、敗れて逃走し、明教は自害して正蓮寺は焼失した。その後明教の遺児亀寿丸が実如上人のはからいで復興された。そのとき正蓮寺の寺号を照蓮寺と改められた。
そして亀寿丸は明心と法名を頂き、内ヶ島為氏と和睦し、荘川村中野に照蓮寺を再興した。

 つまり、照蓮寺が中絶するまでは正連寺で、文亀元年(1501)中野に再興された時、正連寺となったといわれていますが、正連寺の寺号より、照蓮寺という寺号の方が早く現れています。これは、「正」であろうが「照」であろうが字の違いに関係なく、実如上人が書き与える時、間違えて書き与えたということに過ぎず、当初より照蓮寺という寺号であったと思います。また照蓮寺の開基嘉念坊善俊上人と十世明心の飛騨入国の様子が全く同じことから、明心の行実が善俊の行実とされたのではないかと考えられます。照蓮寺廃絶期に、楢谷善宗、牧野唯乗、それに白川善俊の3人の大坊主が照蓮寺の代わりに本願寺へ門徒の取次ぎを行っていたとも考えられます。そして照蓮寺明心が飛騨へ入ってきたことで、まず善俊の門徒、それから牧野唯乗の門徒、最後に楢谷善宗の門徒が照蓮寺門徒へ組み込まれていったのかもしれません。しかし、何分に資料が少ないためはっきりしたことはいえません。 



道従に授与された 絵像本尊とその裏書