HOME


由緒の検証

玄興寺の前身とされる 普盧寺(ふろじ)について





 竹腰兄弟が飛騨に来たとき、春国村には天台宗の普盧寺があった(或いは跡があった)と記しますが、江戸時代中期に上村木曽右衛門満義が著した『飛騨国中案内』には、普盧寺は見当たりません。


●春國村

「高四十七石五斗二升二合(略)家数大小七軒あり。寺宮森なし(略)此春國は上岡本より村並にて本道より右手、此間一町迄は無之。」


●西之一色村

「一ヶ寺は高山照蓮寺末寺にて福浄坊といひ、其後【玄光寺】と改む、高一石三斗六升、此屋敷一反三畝十八歩、開基は文明五巳年なり。」 


 『飛州志』巻八の「寺跡」には松倉山の麓に千光寺の里坊千光寺、塔頭として普門院跡、善応寺跡、鴻巣森に清鏡寺跡(今は東曜山松泰寺と成る)と寺院跡が挙げられていますが、普盧寺の名は見えません。『飛州志』『飛騨国中案内』の上岡本、西之一色に見える寺院、寺院跡はいずれも真言宗の寺院ばかりです。荒川喜一氏は『玄興寺記』でこのあたりに袈裟寺(今朝寺)があり、普盧寺はその塔頭のひとつではなかったかと述べておられますが、この表現から、荒川先生も確定できなかったものと推測されます。袈裟寺という名前は、『飛州志』に丹生川村千光寺の里坊があった記載されていますから、袈裟山千光寺の末寺の可能性が考えられ、それは真言宗の寺院ということになります。

 天台宗の寺院は、江戸時代飛騨には 1つもありませんでした。これは、真宗寺院の多くが、はじめ天台宗であったが、歴代が吉崎の蓮如上人に帰依して転宗したという寺伝を持つことと関係があると考えられます。天台宗寺院は一カ寺残らず真宗に転じたり廃絶したのでしょう。天台宗の普盧寺は真宗の玄興寺に転じたため、かえってその前身である普盧寺の痕跡が残らず、玄興寺の由緒にのみ留められたのでしょうか。不明のままです。