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「由緒」にみる玄興寺


 当寺、金猊山玄興寺の始まりは、今から五百数十年前、室町時代の中頃に始まります。
寛政12年(1800)6月3日に、十一代覚瑛がまとめた『歴代伝灯編 完』によると次のようです。

 信濃の国(長野)安曇郡に竹腰五良兵衛信兼と為五郎信行の兄弟がいました。兄弟は室町幕府の畠山義就の家臣でした。二人は世の無常を感じ、国を出て美濃の国白鳥の天台宗長瀧寺で僧侶となり、信兼は諦観と、弟の信之は義顕と法名を頂き、修行と学問に励みました。年月を経て、諦観は寺を出て飛騨国春国村を訪れ、同じ天台宗の流れを汲む普廬寺へ入寺しました。

 その後、文明六年(一四七四)三月下旬、白川善俊法師に出逢い、直々に教化を受けて真宗に帰依しました。

 文明九年(一四七七)七月、越前の国吉崎に赴いて蓮如上人にお目にかかって弟子となり、名を覚信と改めました。蓮如上人からは、阿弥陀如来の絵像と六字の名号を頂き、これを本尊として、普廬寺を改宗して真宗の道場としました。

 真宗の教えがいよいよ盛んになるにつれ、長瀧寺に残っていた弟義顕も兄を慕って訪れ、同じく真宗に帰依し覚善と名を改め、兄弟手を携えて村民に念仏のみ教えを弘めた。

 延徳三年(一四九一)八月八日、兄覚信は八十才余りで生涯を終えた。弟覚善は兄の後を継ぎ二代目となり、永正七年(一五一〇)四月十四日亡くなりました。その後三代目は、初代覚信の息子で覚善の養子の覚玄が継ぎました(以下略)

 玄興寺第六世福城坊智玄が寺史を記述したものがありましたが、破損していたため、覚瑛が七世空円以降のことを付け加えてまとめたことが自序に記してあります。

一方、覚瑛の義父十世円応が、これに先立つ明和6年(1769)5月に著わした『明和六年丑五月 当寺由緒集書  春国山玄興寺 円応』と表題のある由緒書きには



「当寺開住ハ本願寺第九世ノ実如上人御住世之御時ナリ、延徳元年七月下旬之コロナルカ、天台宗ノ法流相伝仕ル寺院ナル処……法流ヲ振リ捨テテ浄土真宗他力本願ヲ……祖師聖人ノ御教開ニ帰シ奉リ…」

「本尊大幅相願イ、則チ『飛騨ノ国白川照蓮寺殿下覚信』ト御前(染)筆ニテ、御裏御免実如上人ナリ」

「右延徳元年ハ蓮如上人七十五歳之御時ナリ本願寺御住世実如上人ヱ御譲リノ年ナリ」


と、覚瑛のまとめた由緒とかなり異なっています。

 両方とも、玄興寺の歴代の住職が書いた江戸時代の言い伝えとして尊重しなければなりませんが、明らかに歴史的事実と異なる記述も見られますので、ほかの史料などで見ていこうと思います。

 江戸時代第 代高山代官長谷川忠崇が八代将軍徳川吉宗に命じられて編纂にとりかかった『飛州志』には玄興寺について

「同郡(大野郡)春国村ニアリ、同宗同寺末開基始祖、釈深明、文明年中建之○本尊裡書曰方便法身尊形照蓮寺門徒、飛州大野郡灘郷西之一色村之内春国村深明、文明五年八月釈蓮如在判 按ズルニ西ノ一色春国、今ハ両村トナル」


とあります。

以上の主張点を記すと


●覚瑛の記述

  1、開基の竹腰兄弟の素性(信濃の国)経歴に付いて記す。

  2、文明六年に白川善俊(嘉念坊善俊上人)の教化を受けて真宗に帰依した。

  3、文明九年、越前の国吉崎に蓮如上人を訪ね、絵像本尊と六字名号をもらった。

●『飛州志』の記載
  
  4、本尊裏書には開基を深明とする。
  
  5、文明五年に照蓮寺門徒と裏書されている。

●円応の記述

  6、絵像本尊は、延徳元年、覚信が実如上人より授与されたとする。


ということになります。